大判例

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松江地方裁判所 昭和44年(ヨ)58号 判決

申請人 小原公丸

被申請人 グリコ協同乳業株式会社

主文

本件申請を却下する。

申請費用は申請人の負担とする。

事実

一、当事者の求めた裁判

(申請人)

被申請人が昭和四四年三月一日なした申請人に対する被申請人の山陰事業部から中国事業部への転勤を命じる意思表示の効力を仮に停止する。

申請費用は被申請人の負担とする。

との判決。

(被申請人)

主文同旨の判決

二、当事者双方の主張

一 申請の理由

(被保全権利)

(一)  被申請人は、昭和四一年一〇月グリコ乳業関係七社が統合、合併してできた株式会社であり、従業員約八〇〇名を擁し、牛乳及び乳製品の製造、販売を営んでいる。

申請人は、同三一年同志社大学経済学部を卒業後、大阪市の上野公認会計士事務所に勤務、同三四年三月から同三七年三月まで出雲市の有限会社カワシマに経理事務員として勤務し、その後個人で商店等の税務関係の仕事に従事した後、同三九年二月合併前の一つである山陰協同乳業株式会社(以下単に山陰乳業という。)に入社し、以後右会社及び右会社が合併してできた被申請人に雇傭されている従業員である。

(二)  被申請人は申請人に対し、同四四年三月一日被申請人の山陰事業部(大田市所在)から中国事業部(広島県安佐郡所在)への転勤命令を出した(以下これを本件転勤命令という。)。

(三)  しかしながら本件転勤命令は労組法第七条第一号及び第四号に該当する不当労働行為であり無効である。

(イ) (山陰乳業労組の組合活動)

申請人は昭和三九年二月山陰乳業に入社し、試用期間を終了後、同年五月中島謙、高取謙次、滝田治美らが中心となつて結成されたグリコ山陰協同乳業労働組合(以下単に山陰乳業労組という。)に加入し、その後山陰乳業の合併にともなう改組によりグリコ乳業労働組合山陰支部(以下単に山陰労組という。)に所属し今日に至つている。ところで山陰乳業労組ならびに山陰労組は、結成以来、労働者の労働条件の向上をめざして戦闘的な組合活動を広汎に展開し、その活動状況のうち主なものを列挙すると次のとおりである。

昭和三五年一二月―年末一時金三ケ月分を要求し残業拒否闘争。(二ケ月分を獲得。)

昭和三六年―夏季手当二・五ケ月分を要求し一六日間の無期限スト(当時県下で最長の争議であつた。)を実施。(地労委斡旋により二・一四ケ月分で妥結。)

春闘三、〇〇〇円賃上げ要求。(二、六六〇円を獲得。)

秋期賃上げ要求、年末手当要求闘争で二・六ケ月分を要求。(二・二ケ月分プラスアルフアを獲得。)

右闘争直後書記長高取謙次と森山隆志の出向人事を撤回、阻止させた。

昭和三七年―春期賃上げ闘争で三、七〇〇円プラス定期昇給を要求。(二、三〇〇円プラス定期昇給を獲得。)

夏季一時金闘争で二・七ケ月分要求。(一・八五ケ月分プラスアルフア獲得、人事考課はしない。)時間短縮要求において正月休みを有給とし、土曜日を半休とする旨会社側に承認させた。

年末一時金要求闘争にて二・九ケ月分を要求。(二・五ケ月分を獲得、人事考課は認めない。)

その他配転、転勤について労使双方が話し合いで決定していくという大原則を承認させた。

昭和三八年―春闘、夏期一時金闘争において二・四ケ月分要求。(一・八ケ月分獲得。)時間短縮闘争等を行なう。

又同年正式に結成されたグリコ関係六社の労働組合の連合体であるグリコ乳業労働組合連絡協議会(以下乳労連という。)において指導的立場に立ち、山陰乳業労組から連続五期中島謙が議長を、高取謙次が事務局長をそれぞれつとめた。

(ロ) (申請人の組合活動)

申請人は昭和三九年五月山陰乳業労組に加入するや、同年九月の組合定期大会において大会議長をつとめ、会計係に選出された。そして、同年末の人事考課導入反対闘争において申請人は中心メンバーの一人として活躍した。すなわち、同年一一月山陰乳業に赴任した木村正美専務は、〈一〉人事考課の導入、〈二〉班長、主任など末端職制を増やす等組合対策の強化、〈三〉団交制限のための労使協議会の設置、〈四〉組合旗掲場の制限、〈五〉組合員の家庭訪問、飲食、温泉等への誘引による組合員の懐柔を図り、山陰乳業の組合攻撃が強化された。とりわけ右〈一〉は、従来勤務評定は行なわないという労使間の約束を無視するものであり、従業員相互に無用の競争心を与え、組合の団結を阻害し、従業員に対する監視体制を強化するものであるから、山陰乳業労組は真向うから反対し、乳労連による統一交渉も含めた団体交渉を重ね、時限ストライキを数回繰り返した。しかし山陰乳業は地労委に斡旋を申請する傍ら一方的に人事考課を導入し、それに基づく年末一時金を支給した。

申請人はこの闘争に積極的に参加し、組合大会において山陰乳業の一方的一時金支給に反対し、人事考課を事実上不可能にするために組合の手により一時金の再分配を行ない、人事考課分を山陰乳業につき返すことを提案し、組合大会において右提案が採決され、申請人は右再分配事務を一手に引き受ける委員に選任されてその任務を遂行した。

申請人は、同四〇年春の夏季一時金要求闘争には闘争委員として積極的に参加し、同年九月の組合定期大会において職場代議員及び会計係に選出され、更に職場代議員会(大会に次ぐ決議機関)の会長に選出され、職場集会を招集し、職場の意見をとりまとめ、同年の秋闘(時間短縮闘争)、年末一時金闘争などで執行部と共に組合闘争を指導した。同四一年頃より山陰乳業ならびに被申請人は組合活動家に対して配転、解雇による攻撃を加えてきた。すなわち、同年五月二一日山陰乳業は当時組合の中心人物として山陰乳業労組結成以来連続五期委員長を勤めた中島謙に対して勤務員一名として新設した鳥取駐在所への転勤命令を出した。そして中島が右命令を拒否するや、一週間後に右拒否を理由に解雇した(以下これを中島事件という。)。申請人は職場代議員会議長として職場集会を招集、職場討論を組織し、臨時組合大会で中島に対する不当な転勤、解雇を許してはならない旨力説したが、当時度重なる山陰乳業ならびに被申請人の組合弾圧、選挙干渉等のため組合内部では戦闘的な組合活動家はことごとく無力化し、会社と癒着したいわゆる批判グループが作出され、これが組合を支配していたため、山陰乳業労組ならびに山陰労組としては、中島問題については積極的に取り組めない状況にあつた。そこで申請人は「中島守る会」を結成し、その会長として会社の内外での宣伝、オルグ活動を行ない、守る会の会合には自宅を提供し中島と共に右解雇は不当労働行為であるとして島根県地方労働委員会に提訴し(島労委昭四一(不)第三号事件)、自ら中島の補佐人となつて終始審問(五回)に立ち合つて中島を補佐し、又自らも二度証人として山陰乳業ならびに被申請人の不当な組合攻撃、支配介入の事実について証言し、その態度を糾弾した。中島事件は同四二年一二月和解により終結をみたが、その間申請人は一ケ年半の長期にわたり、この闘争の中心となつて活動してきたところ、組合がこのような不当な解雇反対闘争に当然なすべき組合活動を放棄して取り組まない状態の下においては、組合員が守る会を結成し、この闘争を闘うことは労働者の正当な要求を実現せんとするもので、とりもなおさず正当な組合活動である。

同四三年には、元山陰乳業労組書記長高取謙次の不当配転闘争、被申請人山陰事業部乃木工場閉鎖問題について組合が消極的であつたのに反対して積極的に意見を述べ、同四四年一月被申請人側のテコ入れによつて山陰労組の加盟上部団体である島根県労働組合評議会(県評)、両大田地区労働組合評議会(地評)からの脱退問題が提起されたときは、地域共闘の必要性を力説し組合の統一と団結を固守してこれの反対運動の先頭に立ち、その他組合員の会合には積極的に自ら自宅を提供して闘争の中心となり、闘つてきた。

(ハ) (被申請人の反組合的、反民主々義的態度ならびに諸行動)

被申請人は、労働組合及びその活動家を嫌悪し、組合対策として積極的にスパイ工作を行ない、戦闘的な活動家の一掃を図つた。

すなわち、被申請人は公安調査庁と積極的に情報の交換を行ない、昭和四二年暮には明らかに労務工作員と目される大田溜なる人物を公安調査、組合懐柔工作の目的で山陰事業部に派遣し、スパイ活動をなさしめた。

被申請人は組合活動家に対して次のような不当な人事を行なつた。

(1) 高取謙次に対する転勤命令

高取は山陰乳業労組結成以来、書記長を連続七期勤め、中島無きあと申請人らと共に組合幹部の一部にある労使協調の動きに反対し、積極的に組合活動を行ない、中島事件においては申請人らと共に山陰乳業ならびに被申請人の組合に対する不当な攻撃について地労委でこれを非難する証言をしてきたものであるが、被申請人は同四三年四月出張経費節減の名目の下に山口県萩市にわざわざ一人勤務の出張所を設けて同人を山陰事業部から配置転換させた。同人は萩市の他益田市をも担当しており、仕事量においては益田市の方が多いに拘わらず、遠隔地である萩市に一名勤務の出張所を新設して同人を派遣したことはとりもなおさず、組合活動の妨害を図るものに他ならない。組合はこれを撤回させる態度をとり得ず、被申請人から同人の組合活動を妨げないよう保証する旨の確認書をとりつけたものの、遠隔地の一人勤務のため高取は日頃組合員と接触する機会を持つことができず、このため現在組合活動上重要な障害を蒙つている。

(2) 木原規博に対する転勤命令

木原は中島、高取らと同様積極的な組合活動家であり、「中島守る会」にも参加し、申請人らと共に中島の補佐人となり被申請人の組合攻撃の事実について地労委で証言してきたものであるが、被申請人は、同四三年七月同人に対し山陰事業部から中国事業部への転勤命令を出した。同人の転勤理由は中国事業部に獣医の資格のある者が必要であるということにあつたが、昭和四四年六月一日同人が再び岡山の集乳所に配転され、同所での仕事の大部分が獣医の仕事と関係のない原乳の集荷という単純な肉体労働であつて、一名勤務であること、同人が去つた後中国事業部に同人に代る獣医の補充をなしていないことからみると、これ又同人の組合活動を妨害するための配転であるといわなければならない。其の他山陰乳業は、同四〇年山陰労組副委員長滝田治美を中国事業部に配転し、同四一年の中島謙を鳥取に配転したことは既に述べたとおりである。

昭和三九年以来山陰乳業及び被申請人より配転になつた者は課長以上の管理者、本人から希望申出のあつた後記大阪出向者及び前記大田溜の場合を除けば滝田治実(昭和四〇年三月)、中島謙(同四一年五月)、高取謙次(同四三年五月)、木原規博(同四三年七月)、申請人(同四四年三月)の五名ならびに高取と同時にあてうまとして鳥取駐在所へ配転させられた石黒伸孝だけであるが、このうち滝田、中島、高取、木原及び申請人は山陰乳業労組が従業員の労働条件向上のために戦闘的に闘つていた当時の中心的活動家であり、組合が弱体化した後は、その姿勢を正しこれを強化するために活動する一部組合員のリーダーであつた。又右五人のうち、中島、木原、高取及び申請人は「中島守る会」の推進者であつて、地労委審問において中島の補佐人及び証人として会社の前記組合攻撃を糾弾してきた者である。従つて前記一連の不当配転は被申請人の組合活動家に対する報復行為としてとらえるのが正当であり、申請人に対する本件配転命令も右不当労働行為の一環として把えるべきである。

(ニ) (被申請人が特に申請人を嫌つていた事実)

申請人は昭和三九年山陰乳業より脅迫じみた手紙を受けとり、又小切手の後仕末に関して右会社より不当な言いがかりをつけられた。同四〇年九月組合役員選挙前、申請人の上司である岡田経理課長より副委員長への立候補をとり止めるよう云われた。同四一年四月申請人は学校の先輩である竹下一郎より申請人が組合活動に熱心なので、会社が嫌つているらしいから注意した方が良いとの忠告を受けた。同年五月、申請人は経理課から営業課へ配置転換され、その身分も主任から主任待遇に降格され、それ以降決まつた仕事が与えられなかつた。そして右配置転換直後、上司である山野内課長が申請人を会議室に呼んで「組合活動はほどほどにせよ。高取らと行動を共にするな。」と云つた。同四三年二月山野内課長が東京事業部に転出する送別会の席上、同課長は申請人を呼び寄せ、「中島事件で補佐人となつたものは干されるぞ。会社は君達のことをよく思つていないから言動には十分注意するように。会社はえらいことを考えているぞ。」と語つた。

(ホ) (本件転勤命令の申請人に与える不利益)

(1) 職務上の不利益

申請人は既に述べたとおり、大学卒業後一貫して経理関係の仕事に従事し、山陰乳業にも申請人の技術を生かす経理関係の事務員として採用され、以来昭和四一年五月営業課主任待遇に降格になるまで会計課主任として会計事務に携わつてきた。

ところが、今回の配転先である中国事業部販売促進課の職務内容は、バターの販売拡大、学校給食関係の折衝及び注文取りを内容とするいわゆる外勤セールスである。申請人はこのように経理事務に関する技術を生かすことができない販売業務に職種換えをさせられたうえ、未知の土地である広島で、従来全く経験のない外勤セールスに従事するという職務上の不利益を蒙つているのである。

(2) 組合活動上の不利益

申請人は山陰事業部での組合活動が全くできなくなつたのみならず、転勤後の職務は外勤セールスで、会社におる時間が少ないため、他の従業員、組合員と接触する機会が少なく、職場集会にすら出席できない場合がある。

(3) 私生活上の不利益

申請人は大田市久手町に自宅を構え、両親(父義直六八才、母竹枝五八才)と妻の四人で住んでいるが、長男であるので両親を世話する責任がある。

昭和四三年頃父義直には神経痛の持病があり、母竹枝は同年九月肝硬変に罹り当初は生命の危険さえあつて、本件転勤命令の際にも終始寝たきりであり、申請人の心痛の種となつていた。そこで申請人の妻は従来勤務していた大田市所在の環水楼(旅館兼食堂)を退職し、専ら家族四人の家事一切及び母の看病に尽してきた。母の病状は昭和四四年八月頃から漸次快方に向い、同四七年には一応床上げをするまでに回復したが、現在尚病みあがりで薬餌療法を続けており、極めて疲労し易く、家事労働も不可能であつて再発の危険性がつきまとつている。このような家庭状況にあつては申請人が妻を同伴して広島に転勤することは不可能であるから、本件転勤命令に従うためには妻を大田市の居宅にのこし単身で赴任しなければならず、必然的に夫婦別居を強いられることになる。申請人の家庭の経済事情は従来から良くなかつたが、居宅が狭隘に過ぎるので同四三年六月に一五〇万円借金して申請人夫婦のための部屋を増築したため、その借金を返済せねばならず、又父の経営する衛生社の事業も不振であるから、夫婦別居による二重生活が申請人一家の経済に及ぼす影響は重大である。

(四)  本件転勤命令は労使慣行及び労働協約に違反し無効である。

1 労使慣行の存在

合併前の山陰乳業においては、人事異動については、労使間で予め協議し、本人及び組合の同意を得た上で行なうという労使間の慣行が存在し、被申請人は合併により当然にこの慣行を引き継いでいる。

その事実を列挙すると、

(イ) 昭和三六年九月―高取謙次、森山隆志に対する出雲グリコ乳業販売会社への出向問題

(ロ) 同三七年初旬―組合員に対する大田工場から松江市乃木工場への配置転換問題

(ハ) 同年一二月―臨時雇傭者若林の解雇問題

(ニ) 同三八年夏―恒松の交通事故による休職処分問題

(ホ) 同年七月―滝田治美に対する大田営業所から松江市乃木工場への配置転換問題

(ヘ) 同三九年八月―滝田治美の課長代行任命問題

(ト) 同四〇年二月―滝田治美のグリコ那須乳業への出向問題

(チ) 同年三月―滝田治美のグリコ中国協同乳業への出向問題

(リ) 同四一年三月二四日―乃木工場へ一〇名の配置転換問題

(ヌ) 同年暮―希望者の大阪出向問題

(ル) 同年秋―和田為夫に対する那須出向問題

(ヲ) 同四三年五月―萩出張所を新設して高取謙次の配転問題

(ワ) 同年六、七月頃―木原規博の中国事業部への配転問題

(カ) 同年春―大阪出向問題

右(イ)、(ロ)において山陰乳業と山陰乳業労組との間において人事異動に際しては、事前協議の上、本人、組合の納得を得た上でこれを行なう旨の約束をとりつけ、以来(ハ)乃至(カ)の事例においていずれも事前協議を行ない、本人又は組合の意向を打診して山陰乳業又は被申請人の申し出をそのまま或は条件をつけてこれを了承し((イ)、(ロ)、(ホ)、(チ)、(リ)、(ヌ)、(ル)、(ヲ)、(ワ)、(カ))、或は会社側において本人又は組合の同意が得られないために、これを撤回した((ハ)、(ニ)、(ヘ)、(ト))。

2 労働協約の存在

昭和三六、三七年に口頭により人事異動については本人又は組合の事前の同意を求めるという約束が山陰乳業と山陰乳業労組との間に取り交わされたことは前記のとおりであるが、同三八年一二月一三日、乳労連を通じてグリコ乳業六社と各組合との間において「人事異動については、よく会社の意図を組合に説明して、まさつのないように取計らう。」旨のいわゆる事前協議及び同意約款が取り交わされた。右協約の成立経過、従来の労使慣行に照らすと右の「よく説明し」とは組合及び本人と十分協議するという意味に、「まさつのないように取計らう」とは組合及び本人の同意を要するという意味に解釈すべきものであり、かりにそうでないとしてもこれにより人事異動については会社の業務上の必要性についてよく説明を加え、本人の事情も充分考慮の上、誠意をもつてこれを行なわなければならない旨を定めたものと解すべきところ、被申請人は、

(イ) 申請人の家庭事情を充分知悉していながら、これをもつて転勤拒否の理由にならないと繰り返し主張するのみで、誠意を尽さず、拒否すれば解雇すると脅迫し、一方的に本件転勤命令を出した。

(ロ) 団交においても一方的に窓口を閉ざし、申請人の要求を一顧だにしない。

(ハ) 特別の配慮をはらつたというが全くのまやかしである。

即ち被申請人は単身赴任者である申請人に社宅扱の待遇を与えているというが、転勤がなければ申請人は自宅に住むことができ月二、〇〇〇円の自宅手当を支給されていたのに、本件転勤により逆に社宅費用として月一、三九〇円徴収されており、被申請人が約束した母を見舞うための交通費も殆んど支給されていない。

従つて本件転勤命令は、いずれにしても右労使慣行、労働協約に違反する無効なものである。

(五)  本件転勤命令は労働契約に反し、且つ、人事権の濫用であつて無効である。

1 申請人と被申請人間の労働契約の内容及びその違反

山陰乳業はその設立から昭和四一年の合併に至るまで本社を大田市、事業所を大田市及び松江市に有するいわば地域的企業であつた。このような地域性を反映して、従業員は長男であるとか、両親の世話を見なければならぬとか、田畑、自宅を持つなど山陰に生活の本拠地をもつ者が圧倒的に多く、他地へ移転することは困難な実情にあつた。申請人は昭和三九年に山陰乳業に入社したが、その労働契約において、勤務地については右大田市、松江市において労務を提供する、逆に云えばそれ以外の地に勤務させられることはないということをその内容とし、その職務内容については前述のとおり経理事務、営業事務に限定されていた。会社の合併は合併前の各会社の法人格が合一し、権利義務の主体が合体するものであり、労働契約関係をも含めて全ての権利義務が新会社に包括的に承継されるのであるから、合併によつてできた被申請人は山陰乳業とその従業員たる申請人との間に締結された右労働契約をそのまま承継したものというべきであるところ本件転勤命令は、本人の同意なくして労働契約の重要な要素である労働の場所ならびに職種を一方的に変更するものであるから右労働契約に違反して無効である。

2 人事権の濫用

本件転勤命令は、〈1〉被申請人に企業運営上の合理性ないし必要性が客観的に充分認められない。〈2〉申請人の生活権に不当又は不必要な侵害を引き起している。〈3〉転勤を命ずる過程において申請人の了解を求めこれを納得せしめるような誠意のある努力がなされていない。

よつて本件転勤命令は民法第九〇条又は同法第一条第三項に違反し無効である。

(保全の必要性)

(六) 本件転勤命令により申請人の蒙る職務上、組合活動上、私生活上の諸不利益は前記(三)、(ホ)、(1)ないし(3)で詳述したとおりであり、申請人は本案判決の確定を待つていては回復することのできない損害を蒙るので、本案判決の確定に至るまで本件転勤命令の効力の停止を求める。

二 被申請人の答弁ならびに主張

(申請の理由に対する答弁)

申請の理由第(一)、(二)項の事実は認める。なお七つの合併した会社は左のとおりである。

グリコ那須協同乳業株式会社(栃木)

グリコ東京協同乳業株式会社(東京)

グリコ東海乳業株式会社(岐阜)

グリコ中国協同乳業株式会社(広島)

グリコ山陰協同乳業株式会社(島根県大田市)

グリコ佐賀協同乳業株式会社(佐賀)

グリコ熊本協同乳業株式会社(熊本)

グリコ山陰協同乳業株式会社は合併後被申請人山陰事業部となり、グリコ中国協同乳業株式会社は被申請人中国事業部となつた。

申請理由第(三)項のうち、

(1)  冒頭部分は争う。

(2)  (イ)のうち、申請人が昭和三九年二月山陰乳業に入社したこと、山陰乳業労組に所属していたこと、乳労連の議長、事務局長が昭和三八年夏か秋頃から同四〇年一月まで約一年半位の間山陰乳業労組から出ていることは認め、その余の事実は知らない。

(3)  (ロ)のうち、申請人が島労委昭和四一年(不)第三号事件の審問において補佐人及び証人となつたこと、山陰乳業が中島謙を昭和四一年五月配転拒否を理由として懲戒解雇処分にしたことは認める。山陰労組が加盟上部団体より脱退したのが、被申請人側のテコ入れであるとの主張は否認する。その余の事実は知らない。

(4)  (ハ)のうち、前段の主張は争う。

高取謙次を昭和四三年四月萩出張所に、木原規博を同年七月広島の中国事業部内にある山陰事業部酪農第二課(広島県地区担当、なお第一課は大田市にあり島根県地区担当)にそれぞれ配置転換したことは認めるが、その理由は後記のとおりである。

(5)  (ニ)の事実は知らない。

(6)  (ホ)のうち、後記被申請人主張に反する部分は否認し、その余は争わない。

申請の理由第(四)項のうち、

(1)  主張のような労使慣行の存在は否認する。人事異動につき会社はその都度組合に対し異動の意図するところを説明してきたし、かつ、それで十分である。申請人の本件転勤についても被申請人は組合にその意図をよく説明したのであるが、その後組合から改めてこれにつき団交を持ちたいとの申入れがあつたので、被申請人もこれに応じ、事業部対組合支部との間で数回団交を持ち、更に被申請人本社及び組合本部との団交も行なつた。

(2)  昭和三八年一二月一三日組合員の人事異動についての事前協議協定が締結されたとの主張は争う。即ち、六組合は、組合員の人事異動を行なう場合には、予め組合の同意を必要とすることを要求したのであるが、合併前の乳業六社はこれを拒否し、双方交渉の結果「人事異動の実施については、よく会社の意図を組合に説明して、まさつのないよう取計らう」ということで協定が成立したのである。従つて組合員の人事異動については、組合の同意を必要としないことはもとより、事前協議の対象にもなつていないので労働協約違反の問題が起る余地はない。本件転勤については、右協定の趣旨に則り、被申請人は発令前の同四四年二月二〇日、山陰労組によくその意図を説明した。

申請の理由第(五)項のうち、

(1)  労働契約に違反するとの主張は争う。即ち、申請人が入社した当時の山陰乳業は、島根・鳥取両県を担当区域としていたから同資本系列の他のグリコ会社に出向を命ぜられない限りは右両県以外に転任がないことは当然のことであつて、山陰両県以外の地に勤務しないという黙示の契約が存したものではない。昭和四一年一〇月の合併によつて被申請人は全国を担当地域とする会社となつたのであるから、合併後は、全国的視野に立つて発展部門、弱体部門の強化、人員配置のバランス是正、新設部門への配置、マンネリズムの打破等適正配置のため人事異動を行なうのは当然であり、なんら労働契約に反するものではない。合併前において、山陰両県以外に転任はさせない、と説明したこともなければそのような交渉をもつたこともない。

(2)  人事権濫用の主張は争う。

申請理由第(六)項は争う。

(被申請人の主張)

一、(高取謙次の配転理由)

高取は、昭和四〇年四月より山陰乳業販売課に属し、萩及び益田地区を担当していた。大田市所在の被申請人山陰事業部より萩方面へ出張するには汽車で片道約四時間もかかり能率が上らず、経費の負担も多いのでこれを防止すると共に販売の強化を計るため同四三年四月、萩市に萩出張所(益田地区をも担当する)を新設したので、従来該地区の担当者であつた同人をそのまま配転したのである。なお同人と同時に山陰事業部販売課に所属し、鳥取・倉吉地区を担当していた石黒伸孝を鳥取出張所に同様の理由で配転した。

(木原規博の配転理由)

酪農第二課より課員二名を中国事業部販売課に配転した後任の人事であり、従来第一課には獣医の資格ある課員五名、その他の課員四名おり、第二課には獣医の資格ある課員二名、その他の課員三名おり、第一課に属し獣医の資格ある木原を獣医の少ない第二課に配転して第二課の陣容を強化したものである。なお同人は広島出身で同人自身も同地に赴任することを希望していた。

(滝田治美の配転理由)

滝田は昭和三四年三月鳥取大学農学部農芸化学科を卒業すると同時に山陰乳業に入社し、試験室勤務となり、同三七年三月同室主任となつて同室勤務約五年半の経験があつた。広島の試験室に経験者の必要が生じたので、同人を適任者として転勤せしめたのである。

(中島謙の懲戒解雇理由)

山陰乳業は、島根・鳥取両県を販売地域としており、鳥取地区には駐在員を置いていたが、昭和四〇年一一月駐在員が退職し、その後は空席のまま松江市所在の乃木工場から一ケ月数回職員を出張せしめて暫定的事務処理をしていた。山陰乳業の当時の市場占有率(他業者とのその地区における販売実績比率)は松江地区三八%、出雲地区三二%、米子地区二九%であるに拘わらず、鳥取地区は一一、・七%の最低であつたので、販路拡張のために駐在所を設置し専属の職員を配置することとし、経理、管理事務、販売促進に経験ある当時経理課に所属していた中島を適任者として同四一年五月転任の発令をした。しかるに同人は健康に自信がない、郷里(福岡県久留米市)の病弱な母を時々見舞うためには新任地は遠くなる、鳥取にはコネがないので仕事に自信がない、妻や母も転任には反対している等の理由でこれが転任を拒否した。山陰乳業は健康に自信がないなら医師の診断書を提出するよう要請したが、自分の身体は自分が一番良く知つているとして診断書の提出を拒否した。

右発令は、山陰乳業の販売強化を意図する営業方針に基づくものであるに拘わらず、全く合理的理由なくしてこれを拒否した同人の恣意的行動が集団的企業体において許されるものではないので山陰乳業は経営秩序と事業の円満なる運営のために、就業規則に基づき懲戒解雇処分に処したのである。

二、(申請人に対し本件転勤命令を出すに至つた経緯)

(1)  申請人に対する本件転勤命令は、昭和四四年三月一日付で行なつた被申請人の全般(全国)に亘る三六名の定期異動中に含まれたものであつて、申請人のみを対象とした部分的、臨時的異動ではない。

(2)  即ち中国事業部販売促進課長瀬戸和夫が東京事業部営業部千葉営業所長に転出し、また同課員藤本征司が東海事業部営業部名古屋営業所に転出し、同課は二名転出したので、その後任として申請人に転勤を命じたものである。

(3)  申請人は同志社大学経済学部を卒業し、経理及び販売管理に従事し、セールスの経験こそないが、経理事務に明るいことはセールスの場合大きな強味であり、販売促進課の適任者として選んだのである。

(4)  申請人の転勤拒否の理由は、

(イ)  申請人の母が昭和四三年九月肝臓疾患で病臥したので、妻が食堂勤務をやめて看病にあたり、同四四年二月頃より病状は好転し、寝たり起きたりの状態であるが、しかし未だ一年位は療養の必要があること。

(ロ)  申請人の父が経営している衛生社が経営不振で建直しに迫られていること。

(ハ)  同四三年に居宅を改築したため借金をしたのでこれが返済に追われており、広島へ転勤すると世帯がわかれ、経費がかさみ返済に困難をきたすこと。

以上の三点のほか、母は自宅で宗教の布教師をしており健康も次第に回復したのでぼつぼつ信者を集めて布教をせねばならぬので一家を挙げて広島への転任はできないし、妻を連れて行くほど母は未だ快癒していないので、赴任するとすれば単身を余儀なくされることになる、というのであつた。

(5)  しかし母の病状は良好状態を保つていて、時に外出したこともあり、宗教行事も自宅で行なわれており、父も健在で大田市には弟夫婦も居住しているのであるから、母の疾患は転勤を拒否する理由にはならず、父の事業や、改築の借金も又転勤拒否の合理的理由にはならない。妻との別居についても絶対不可能とは解されず、たとえ妻と別居したからと云つて、かかる事情は被申請人の全国的視野から意図した経営の強化、合理化に伴う人員の適正配置のためには、やむを得ないものであつて、これを拒否する理由とはならない。

(6)  被申請人は本件転勤にともない申請人の事情を充分考慮した上、(1)毎月一回位母を見舞うため会社の費用負担において帰宅することを認め、(2)通常独身又は単身赴任者には社宅扱い(普通の家賃の四分の一位の負担をすればよい)をしないのに申請人には社宅扱いをするとの異例の特典を与え、申請人の便宜を計ることにしたである。

三、疎明関係〈省略〉

理由

一、申請の理由第(一)、(二)項の各事実は当事者間に争いがない。

二、そこでまず本件転勤命令が労組法第七条第一号又は第四号に該当するか否かにつき判断する。

(イ)  申請人の組合活動

成立に争いのない疎甲第一一号証、第一四号証、第一五号証、第四八号証(疎乙第三号証の一と同じ)、第四九号証、第五〇号証(疎乙第三号証の二と同じ)、申請人本人尋問(第一回)の結果真正に成立したと認められる疎甲第一号証、証人高取謙次の証言により真正に成立したと認められる疎甲第二号証、証人中島謙の証言により真正に成立したと認められる疎甲第四五号証、証人高取謙次、和田為夫、中島謙の各証言、申請人本人尋問(第一回)の結果を総合すると次の事実が疎明される。

昭和三九年一一月中旬頃、山陰乳業では、従来の石田専務に代つて木村専務が着任し、同専務は、「第一年目は山陰乳業の全てのウミを出し、第二年目は収支とんとんにし、第三年目には、約一、〇〇〇万円の利益をあげて中国協同乳業と合併する。」と所信を述べ、その実効策として従来山陰乳業では行なわれていなかつた人事考課(勤務評定)の制度を導入し、これを実施すると言明した。そこで山陰乳業労組は、これは従業員相互に無用の競争心を与え、組合の団結を阻害し、かつ、従業員に対する監視体制を強化するものとして真向うから反発して何度も団体交渉を重ねた。申請人は同年二月山陰乳業に入社したばかりであつたが、組合内部における信望が厚く、同年九月の組合定期大会において、大会議長に推され、その上経理に堪能なことから会計係に選出され、右人事考課導入反対闘争と取り組み、組合大会で組合員の統一と団結を主張した。ところが、山陰乳業は、組合の反対運動にも拘わらず同年一二月の賞与につき勤務評定を加味したものを支給した。そこで組合は、右賞与をそのまゝ組合執行部に預託し、組合員全員で選出した管理者をして、右賞与を勤務評定を適用しない額に再度計算し直させて各人に支給することとし、もし余剰金が出れば、これを会社に返却する旨決議し、申請人がその管理者に選出され同年暮、翌年夏、暮の各賞与につき右の趣旨に則つてこれを実施した。同四〇年の春に行なわれた組合役員選挙においては、申請人は副委員長に次点で落選したものの、同年九月には職場代議員議長に選出され、職場集会の招集、方針樹立、職場統轄の面で活躍し、組合三役に匹敵する役割を果した。しかし、この頃から組合員内部に会社側の営業方針施策に同調する空気が生じ、組合執行部の運動方針を批判するグループが抬頭し、組合は事実上分裂・弱体化の傾向を示すようになつた。

翌四一年五月二一日山陰乳業は、山陰乳業労組結成以来連続五期その委員長を、又乳労連委員長二期を勤め当時組合の中心人物であつた中島謙に対して鳥取駐在所への勤務を命じた。山陰乳業は、鳥取地区における会社の信用ならびに市場占有率を拡大するためには鳥取に駐在員を置く必要があるところ、中島は年令・経験・能力等よりみて適任である旨主張したが、同人は同四〇年一月から四月下旬頃迄胃潰瘍で入院・手術を受け、六月中旬に職場に復帰した後であるので健康に自信がない、鳥取における駐在員の必要性に疑問がある、そしてなによりもその配転は自分の長年の組合闘争に対する報復人事であると考えてこの命令には従わなかつた。そこで山陰乳業は同四一年五月二八日同人に対し懲戒解雇する旨の意思表示をした。これに対し組合は、執行部を中心として団交の申し入れをしたり、組合大会を開催する一方、申請人、高取、木原、飯田らは、中島事件は不当労働行為であるから徹低的に戦わなければならないと主張したが、前記のような状況にある組合の下では多数組合員の賛同が得られず、結果的には「組合は首切りには人道上反対するが、配転には口を出さない。」旨決議がなされ、組合は中島事件に対して協力する態度を示さなかつた。申請人は、中島事件をこのまゝ終らせてはならないと考えて、中島の支援団体である「中島守る会」(以下「守る会」という。)を結成し、自らその会長となり、副会長に地評の三役と木原規博を、事務局長に高取謙次を据えた。右会には、グリコ関係組合員九〇名中二五名、ほかに大田地評、県評傘下の組合員、グリコ菓子関係労組員等総数約六〇名が加入し、中島の解雇の不当性を多数の人に周知せしめるため一五〇種類にも達するニユース、ビラ等の発行による宣伝活動、県評その他の労働組合に対する資金カンパならびにオルグ活動を続ける一方、中島は、解雇は不当労働行為であるとして地労委に提訴し(島労委昭四一(不)第三号事件)、申請人は自ら中島の補佐人となつて終始地労委の審問(五回)に立会つて中島を補佐し、又二度証人として山陰乳業ならびに被申請人の組合員に対する買収工作の事実等支配介入の事実について証言した。その間申請人は「守る会」の定期会合を招集し、議題を決めて会議を主宰し、その際自宅を会場に提供するなどして全力を挙げてこの問題ととり組んだ。中島事件は、同四二年一二月地労委において中島がその時点で会社を退職する旨の和解が成立して終了した。申請人が主宰する「守る会」は中島の退職により一応その目的を達したが、その後も会社に癒着しがちな組合に対する批判グループとして申請人、高取謙次、木原規博及び和田為夫等を中心として残存していた。同四三年四月、被申請人はもと山陰労組書記長高取謙次に対し萩出張所への転勤を発令したが、申請人は右転動拒否の闘争に加わり、又同じ項、被申請人の乃木工場閉鎖に際して組合があいまいな態度をとつたので「守る会」を代表してこれに反対する闘争に参加し、さらに同四四年一月には山陰労組の加盟上部団体である県評、地評からの脱退問題が生じ、二月の組合定期大会で右議案が審議され、翌三月の組合臨時大会において脱退決議がなされた際、申請人や高取謙次は右脱退にあく迄も反対した。

其の他申請人は、職場集会や組合大会において積極的に発言したが、中島事件以後は組合役員、職場代議員等に選任されなかつた。

他に右認定を覆えすに足りる疎明はない。

(ロ)  申請人以外の配置転換事例

(1)  高取謙次に対する転勤命令

前掲疎甲第二号証、第一一号証、証人高取謙次、同中島謙の各証言、申請人本人尋問(第一回)の結果を総合すると次の事実が疎明される。

高取は昭和三四年四月山陰乳業に入社、販売課に所属し、同三五年一〇月山陰乳業労組結成以来連続五期組合書記長を勤め、中島事件では申請人と共に補佐人及び証人となつて同人を支援し、中島が解雇された後は組合の中心的活動家となつた。高取は同四〇年四月以来益田・萩両地区の販売をも担当し、大田から急行列車で片道二時間を要する益田市には週二、三回位、同じく約三時間を要する萩市には月二、三回位出張していた。山陰西部では萩市より益田市の方がはるかに販売実績が高かつたにもかゝわらず被申請人は、同四三年五月経費節減と能率化を理由に遠隔地萩市に一人勤務の出張所を設け、高取に対し転勤命令を発した。高取は右転勤命令を不満として組合に提訴し、組合と被申請人の間に四~五回の団交がもたれ、その結果被申請人から「高取の組合活動を将来にわたつて保障する。大田で職場集会がある場合には、萩出張所から会社の車を使用して参加し、帰りが遅くなる時は翌日に帰つてもよい。」旨の約定を取り付け、高取は右転勤命令に従つて萩に赴任した。

(2)  木原規博に対する転勤命令

証人高取謙次、同中島謙の各証言、申請人本人尋問(第一回)の結果及び申請人本人尋問(第二回)の結果により真正に成立したものと認められる疎甲第五三号証を総合すると次の事実が疎明される。

木原は山陰労組の委員長、副委員長を勤めたこともあり、中島事件では申請人らと共に補佐人或いは証人となつて活動した積極的な組合活動家で獣医の資格を有していたところ、昭和四三年六月中国事業部に獣医が不足しており酪農民から獣医の要請があるとのことで、山陰事業部から広島県安佐郡所在の中国事業部に転勤を命ぜられた。木原は右命令に不満を持つたが当時中島事件後で組合が弱体化しており、組合の支援を得て右命令を撤回させることは困難な情況にあり、且つ、同人の妻が山口県柳井市の出身でもあつたので渋々右命令に従つて中国事業部に転勤したが、翌四四年五月頃同人はさらに岡山県金光集乳所へ配転を命ぜられ、四五年四月頃までは獣医の仕事をはなれて主として集乳業務に従事していた。

(3)  中島謙に対する配転命令

前記(イ)で認定したとおりである。

以上の認定を覆えすに足りる疎明はない。

(ハ)  山陰乳業ならびに被申請人の申請人に対する態度

原本の存在ならびにその成立に争いのない疎甲第四一号証、前掲疎甲第一号証、第一五号証、証人大洞信男の証言により真正に成立したものと認められる疎乙第九号証、証人中島謙の証言、申請人本人尋問(第一回)の結果を総合すると次の事実が疎明される。

(1)  昭和三九年頃、申請人は伝票をとりに会社の二階に上つたのを重役室での話を盗み聞きに来たのではないかと邪推され、重役室前で立ち聞きしている状況を写真にとつている旨記載した差出人「S」名義の手紙を受け取つたが、その筆跡は直属の上司である岡田経理課長の筆跡に酷似していた。

同四〇年春闘時経理課の女子職員が小切手帳を金庫にしまい忘れて帰つたのを岡田課長は「組合は申請人に小切手をしまわずに帰れというようなことまで指示するのか、これも組合闘争の一環か、申請人も組合のそんな指示を聞くのか。」と組合に抗議した。

(2)  昭和四〇年八月末頃申請人が大田市内の小料理屋「一休」で飲酒した際、竹内製造課長、岡田経理課長らと一緒になつたところ、その時岡田課長は申請人に対し「お前は組合副委員長に立候補するらしいがそれは為にならない。立候補はとり止めろ。」と語つた。

(3)  昭和四一年一月より四月頃迄の間、申請人はヘルニヤで入院、手術を受け、退院後見舞を受けた学校の先輩にあたる竹下一郎を挨拶旁々訪問したところ、「君は組合活動が熱心だそうで会社からにらまれているそうだが、松本さん(旅館環水楼の主人、申請人の学校の先輩で、かつ、申請人が入社する時の保証人である。)も心配している。」と語つた。

(4)  昭和四一年五月一〇日申請人は経理課会計係主任から営業課販売勤務(主任待遇)を命ぜられた。そこでの業務分担内容は、売掛金管理、販売資材管理、営業関係経費予算の統制簿管理業務等ということであつたが、高校卒の女子も含めて係員七名のうち申請人に対しては責任をもつて担当する仕事が与えられなかつたので、昭和四三年一月頃請求書の作成、売掛台帳の整理等を担当していた柿田周直が病気で休職しその後を引継ぐまでは多忙な部署の応援をしたり、自発的に日報を作成したり、販売店の帳簿指導・監査等の業務を引き受けたりしていた。

(5)  昭和四三年二月頃、東京事業部に転出する山野内営業課長の送別会が大田市内の料理店「いろは」で開催されたが、その席上同課長は申請人に対し「置き土産で言つておくが、会社はえらいことを考えているから今後は言動には十分注意せよ。」と語つた。

(6)  昭和四四年二月一七日、山陰事業部の原係長と堀課員は、本件転勤命令に関連して、申請人の家庭状況などを聞くため申請人の父親が経営する衛生社の運転手山崎弘典宅を訪ねたが、その際「申請人は共産党員である。会社は左翼を嫌つているし、大学出は頭がよくて扱いにくい。」等と語つた。

以上の認定を覆えすに足りる疎明はない。

(ニ)  本件転勤命令ならびに申請人が転勤するに至る経緯

前掲疎甲第一号証、疎甲第四一号証、いずれも成立に争いのない疎甲第四号証、第五号証、疎乙第一号証、第二号証、原本の存在ならびにその成立に争いのない疎甲第三九号証、第四〇号証、第四二号証、証人中村正一、小原予吏子、佐々木博の各証言、申請人本人尋問(第一回)の結果を総合すると次の事実が疎明される。

被申請人は、昭和四一年一〇月、同資本系列の七社即ち、グリコ那須協同乳業株式会社、グリコ東京協同乳業株式会社、グリコ東海乳業株式会社、グリコ中国協同乳業株式会社、グリコ山陰協同乳業株式会社、グリコ佐賀協同乳業株式会社、グリコ熊本協同乳業株式会社が合併して出来た株式会社であり、合併後は旧会社を母体に、それぞれ那須、東京、東海、中国、山陰、九州北、九州南の七事業部ならびに那須・東京事業部を統括する関東事業本部、中国・山陰事業部を統括する中国事業本部、九州北・九州南事業部を統括する九州事業本部の三事業本部に組織化され全国的な会社となつた。

被申請人は合併後昭和四三年三月第一回の定期人事異動を行ない、更に翌年二月経営会議の承認のもとに第二回目の定期人事異動を計画したが、この際は営業政策上の重点地域に人材を補強するため、各事業所の枠に閉じこめられた人事から脱皮し、全国的視野に立つた異動を行なうことにし、特に首都圏コンビナートの拡大につれ、同所における人材の強化にせまられていたので、当時中国事業部販売促進課長であつた瀬戸和夫を東京事業部営業部千葉営業所長に、中国事業部営業部販売促進課所属の藤本征司を東海事業部営業部名古屋営業所に各転出させることにしたところ、右藤本の後任として申請人を含めた四名の者が候補にあがつた。

ところで、被申請人会社人事部では、将来人事異動の資料とするため、全従業員から定期的に自己申告表(自己の性格判定・転職希望の有無・家庭事情・悩みごと等を記載させるもの)ならびに直属の上司から個人面接の結果を記載した報告書を徴していたが、申請人の自己申告表には、自己の性格として「世話好き」、「几帳面」、「内気」、「冷静」、「社交的」である、直属の岡田課長からの報告書には、性格として「緻密」、「几帳面」、「社交的」であり家庭事情としては「母病気」、総合所見として「現在の仕事よりもさらに上級の仕事をこなす能力がある」旨記載されてあつた。そこで人事部長中村正一(以下中村部長という)は、四名の候補者の中から、発展性の乏しい事業所に勤務し、大学出で相当な年輩であり、将来の中堅幹部職員と目されながら未だセールスの経験のない者を選考した結果、申請人がもつとも右基準に適合しており、且つ、その性格資質に照らし、この機会にマーケツテイングの勉強をさせることが同人の将来の飛躍のために必要かつ重要であると考えた。しかし、中村部長は申請人の前記面接表中に記載してある「母病気」との項が気にかかつたので、念のため二月一六日山陰事業部佐々木次長に申請人の母竹枝の病状の調査を命じた。同次長は二月一八日浜坂総務・岡田経理の両課長に右病状の調査を依嘱し、岡田課長は主治医に面会してその病状を尋ねたところ、病名は慢性肝炎であるが経過は大体良く、外出も炊事も可能な程度に回復している旨聞いたので、翌一九日その旨佐々木次長に報告した。

一方浜坂課長の命を受けた原係長は申請人の近くに住む堀課員の案内で申請人の父義直が経営する衛生社の従業員である運転手山崎弘典方へ調査に赴いたところ、山崎は「申請人の母は元来身体が丈夫ではなく、昭和四三年九月頃慢性肝炎を患つてから四四年一月頃迄寝込んでいたものの、最近は経過も良く、寝たり起きたりの状況にあるが、入院する程の状態でもなく週二度程主治医が往診に来ている。今年の二月一〇日頃には衛生社の経営問題の相談の為、主人と共に来宅した事実がある。」と語つたのでその旨を浜坂課長に報告し、同課長は二月一九日これを佐々木次長に報告した。同次長より右調査結果の報告を受けた中村部長は申請人の母竹枝の病気はさしあたつて申請人の転勤の障害とならないものと判断して、佐々木次長に対し、予定どおり申請人に対する異動を内示するよう命じた。そこで佐々木次長が二月二〇日申請人に対し今回の人事異動の趣旨を説明し、三月一日付で中国事業部に転動するよう内示したところ、申請人は「現在母が病気である。広島は未知の土地なので仕事が出来るかどうか不安である。主任で行くのか係長で行くのかはつきりしない。家の改築工事をしたばかりなので借金が多い。父の経営する衛生社の事業が最近思わしくない。」等の事情を申し述べ「二、三日考えさせてほしい」と返答した。佐々木次長は申請人に転勤内示をした直後、組合三役に対し申請人の人事について説明し二月二四日、二六日の二日にわたつて本件について団交がなされ、その席上組合側から、内示から発令までの間の期間が非常に短かくて心の準備が出来ないので、もう少しその期間を長くして欲しい旨の要望があつた。申請人は同月二七日頃佐々木次長の了解の下に中国事業部へ仕事の内容の調査に赴いた。次いで三月一日団交がもたれ、席上組合側は申請人の母竹枝の病状が思わしくないので転勤をもう一年見合わせて欲しい、一年たつた時点でもう一度考え直す、と申し入れたが、被申請人代表木村専務はこれを断わつた。三月四日申請人、瀬戸課長、藤本課員及び太田溜を含む三六名の定期人事異動の社告が山陰事業部に提示された。其の後同月五日付で申請人の父義直より佐々木次長宛に妻の病状を訴える手紙が差し出され、申請人も母竹枝の診断書(それには病名肝硬変症、右に依り昭和四三年九月一七日より加療中で経過大体良好であるが、なお長期、少なくとも向う一ケ年位安静、加療を要するものと認める、と記載している。)を提出した。三月二一日中国事業部において会社側から木村専務、佐々木次長、中村人事部長、組合側から執行委員ら一四名が集つて中央団体交渉がもたれ、席上組合側は、重ねて申請人の転勤を一年延期するよう申し入れたが、会社側に拒否されたので、そのかわりとして申請人が中国事業部へ赴任し易い条件を提示するよう要求した。これに対して会社側は、次のような妥協案、即ち、

〈1〉  夫婦で転任するのが原則であるが、母の病気看護のためもし単身赴任とならざるを得なくても、単身赴任者には認められておらない社宅を提供する。

〈2〉  もし母の看病、見舞のため必要とあらば中国事業部と山陰事業部との間を往復する会社の牛乳タンク・ローリーの添乗を許可する。それでも間に合わぬ場合には月一~二回程度の帰省実費を支給する。

〈3〉  右帰省のため、土、日曜日を有給休暇扱いにすることも考える。

〈4〉  妻同伴で赴任し、そのために経済的に困るようなことがあれば現地での妻の内職探しに会社は協力する。

旨の案を提示した。組合は右案を今後更に検討することを約して当日の団交は終了したが、其の後両者間になんらの進展はなく、三月二五日に至り佐々木次長が申請人に対し重ねて転勤を説得したところ、申請人は、「これ以上頑張つたら解雇されるので赴任する。但し地労委に提訴して争う。」旨述べ、同月二七日中国事業部へ単身で赴任した。

右認定に反する証人和田為夫、中島謙、高取謙次の各証言及び申請人本人尋問の結果(第一、二回)は採用せず、他に右認定を覆えすに足りる疎明はない。

(ホ)  右(イ)~(ニ)の疎明事実から判断するに、

労組法第七条第一号にいう「労働組合の正当な行為」とは、その当時の労働組合の執行部の運動方針・施策と必ずしも軌を一にする活動でなければならないものではなく、仮にそれに相対立するものであつても実質的にみて自主的に労働条件の維持改善その他労働者の経済的地位の向上を図ることを主たる目的とする活動であれば足りると解するのを相当とするところ、前記のとおり中島事件発生の頃から山陰乳業労組ならびに山陰労組内部に会社に協力的な組合執行部の活動方針を批判するグループ「守る会」が結成され、申請人はその会長として他の一部組合員と共に組合主流の方針に反する前記諸活動を行なつて来たが、右活動を実質的に見れば、組合をより自主的なものとし、これにより従業員の労働条件の維持改善をはかろうとする行動を評価することができるので、申請人の右活動は、正当な組合活動と認めるのが相当である。そして山陰乳業ならびに被申請人が申請人の右諸活動を快く思わず、会社にとつてうるさい存在であると考えていたことは否定できないところであるから、この点だけをとらえ、さらに本件転勤命令を高取、木原、中島ら組合活動家に対し順次なされた配置転換と関連づけて一連の組合対策であるという見方をすれば、本件転勤命令は申請人の組合活動に対する報復としてなされたものと考えられないでもない。

しかしながら、被申請人の昭和四四年三月における人事異動は企業上の必要のため全社的視野にたつてなされたものであり、特に申請人のみを異動させようとの狙いに出たものとは認められないこと、客観的な資料に基づいて選定基準に適合する候補者の中から申請人を選定したものであり、その選定に不自然な点がないこと、申請人はセールスの経験こそないがその経験、能力、性格から見て特にセールスには不向きであるとはいえないこと、職務の内容を除いては転勤後の身分、給与に変更がなく、大学卒で被申請人会社では主任(又は主任待遇)の地位にあり、将来中堅幹部職員になりうると目される申請人にとつて大都会で営業の第一線に立つということは有意義なことであり、その意味ではむしろ栄転人事と見られること、本件転勤命令が出されるまで中島事件の発生から約三年、地労委で和解が成立してから一年半の年月が経過しているが、中島事件以後申請人は組合役員になつたことも、立候補したこともなく、その組合活動には特に顕著なものが見当らず、申請人が山陰事業部から転出することによつて山陰労組が組合活動遂行上打撃を受け、又はその運営に支障をきたすと認めるに足りる疎明がないこと、申請人は本件転勤命令に対し、直接あるいは組合を通じて会社側に対し、転勤できない理由として家庭事情を縷々説明しているが、本件仮処分申請までは右命令が不当労働行為であると主張した形跡がなく、又組合が右命令を不当労働行為として取り上げ申請人を支持したとは認められないこと、被申請人において申請人の家庭事情を考慮し、母の看護、見舞のための帰省につき、あたうる限りの便宜をはかることを約していること等の諸事情を総合すると本件転勤命令が申請人の前記組合活動及び地労委における証言を嫌忌し、これに対する報復として申請人を従来の職場から排除する意図の下になされたものとは到底認めることはできない。

したがつて、申請人の本件転勤命令が不当労働行為であるとの主張は失当であるといわなければならない。

三、次に本件転勤命令が労使慣行ならびに労働協約に違反し無効であるとの主張について判断する。

(1)  山陰乳業において人事異動を行なう際に労使間で予め協議し、本人及び組合の同意を得た上で行なうことを要するとする労使慣行の存在について。

まず申請人を除く山陰乳業時代からの主な人事異動とその経過を辿つてみると、成立に争いのない疎甲第二八号証、第二九号証、第三二号証、前掲疎甲第四五号証、証人佐々木博、高取謙次、中島謙、和田為夫の各証言(但しいずれも後記認定に反する部分は除く)を総合すると次の事実が疎明される。

(イ)  昭和三六年九月、当時山陰乳業労組書記長高取謙次と森山隆志両名に対する出雲市のグリコ牛乳販売会社への出向問題

(ロ)  同三七年一二月二八日臨時雇傭者若林の解雇問題

(ハ)  同年一〇月従業員の乃木工場への配転問題

(ニ)  同三八年二月交通事故を起した従業員恒松の就業規則に基づく処分問題

(ホ)  同年七月組合副委員長滝田治美の乃木工場への配置転換問題

(ヘ)  同三九年八月二一日右滝田の乃木工場製造課係長兼課長代行発令問題

(ト)  同四〇年二月頃、右滝田をグリコ那須協同乳業、グリコ中国協同乳業への各出向問題

(チ)  同四一年三月従業員一〇名の乃木工場への出張問題

(リ)  右の同じ頃、和田為夫のグリコ那須工場への転勤問題

(ヌ)  同年五月中島謙の転勤問題(前記二、(イ)参照)

(ル)  同年五月高取謙次の萩出張所への転勤問題(前記二、(ロ)、(1)参照)

(ヲ)  同年七月木原規博に対する転勤問題(前記二、(ロ)、(2)参照)

等が起り、これらは、

(イ)については、労使双方協議の上、出向人事は長期出張人事に変更され、この問題を契機に人事問題からの労使紛争を出来るだけ避けるために、今後労使双方十分協議していくよう話合ができた。

(ロ)については、臨時雇傭者は、冬期になると牛乳関係業務が減るので雇傭期間は打切るが、翌年四月には再雇傭するという約束がなされた。

(ハ)については、高校卒の従業員を乃木工場へ配置換えするというもので、労使双方協議の上、本人の意思を確かめて配転が行なわれた。

(ニ)については、恒松の交通事故により会社は三ケ月の謹慎処分に処したが、協議の上これを短縮し、運転手の職務から出荷業務へ配置換えをした。

(ホ)については、組合も本人も納得の上転勤に応じた。

(ヘ)については、組合、本人共拒否したため会社は撤回した。

(ト)については、グリコ那須協同乳業への転勤は組合、本人の拒否により会社は撤回した。グリコ中国協同乳業への転勤は組合、本人の同意を得てなされた。

(チ)については、本人の意向を聞き了承を得て行なわれた。

(リ)については、本人の拒否により会社は撤回した。

(ヌ)については、前記二、(イ)に記載のとおりとなつた。

(ル)については、前記二、(ロ)、(1)に記載のとおりとなつた。

(ヲ)については、前記二、(ロ)、(2)に記載のとおりとなつた。

以上のことが疎明され、他に右認定を覆えすに足りる疎明はない。

右事実から判断するに、山陰乳業においては、人事異動を行なうに際しては、事前に組合又は本人に会社の意図を説明しまさつのないよう取り計らうという労使慣行があつたと認められるが、組合または本人の同意を要するとするまでの労使慣行が確立していたとは認められないところ、右慣行は昭和四一年の合併の際特に排除されたとの疎明がないから合併により被申請人に承継されたものと解するのが相当であり、合併後被申請人と組合の間で申請人主張のような労使慣行が成立したとの疎明はない。そして前記二で認定のとおり被申請人は申請人ならびに組合に対し再三にわたり申請人を中国事業部に配置換えする理由を説明しているので、本件転勤命令が従来の労使慣行に反しているとはいえない。

(2)  労働協約の存在について

前掲疎乙第三号証の一、二(同号証の二は疎甲第五〇号証と同一である)、証人中村正一、佐々木博の証言を総合すると次の事実が疎明される。

昭和三八年一〇月九日、当時乳労連議長であつた中島謙はグリコ乳業六社に対し、会社が〈1〉組合員の作業条件ならびに勤務時間の決定及び変更を行なう場合〈2〉組合員の人事異動を行なう場合〈3〉組合員の処分を行なう場合にはいずれも予め組合の同意を必要とする旨の事前協議協定締結の要求をしたところ、同年一二月一三日グリコ乳業六社の代表取締役吉武武と乳業六社の各労働組合との間で「組合員の作業条件及び勤務時間の決定及び変更、人事異動、処分の実施については、よく会社の意図を組合に説明して、まさつのないよう取計らう。」旨の文書による協定が成立したことが疎明される。ところで証人高取謙次、中島謙、和田為夫は、右協定はいわゆる事前協議約款に該当し、特にその旨を明記しなかつたのは従来人事異動等に関し事前協議を行なう労使慣行があつたためであり、右協定はかかる背景を考慮して解釈すべきものと証言する。しかし右(1)で判断したとおり昭和三八年一〇月当時に事前協議約款に相当する労使慣行が成立していたとは認めることができず、かえつて人事異動等に際しては、会社の意図を組合に説明すれば足りるという程度の労使慣行が存在していたにすぎなかつたと認められるので右協定はその文言どおり解するのが当事者の意思に合致するものというべきである。

そして被申請人が本件転勤命令に際して申請人ならびに組合に対して人事異動の意図をよく説明したことは前記二で認定したとおりであるので申請人のこの点の主張も理由がない。

四、次に労働契約違反の主張について判断する。

(1)  勤務場所変更について

証人高取謙次、中村正一、小原予吏子、和田為夫の各証言、申請人本人尋問(第一回)の結果を総合すると次の事実が疎明される。

山陰乳業はその設立から昭和四一年の合併に至るまで本社を大田市、事業所を大田市ならびに松江市に有するいわば地域的企業であり、従業員のうち八割以上の者が長男で両親の面倒を見なければならないか、或は田畑、自宅を持つなど山陰を生活の本拠地とする地元出身者で占められていた。そして合併の際会社の幹部が従業員に対し今後は或は大田以外の地に転勤させることがあるかも知れぬと語つたが、事実上山陰以外の他地へ移住することの困難な者が多かつた。

申請人は山陰乳業入社以来、大田市久手町に自宅を構え、両親(父義直七〇才、母竹枝五九才)と妻予吏子の四人で生活し、父義直は同市内で従業員二名を雇い衛生社を経営していたが、その経営は思わしくなく合計約五〇万円程の負債をかゝえており画家である弟が妻子と共に大田市内に居住しているが、申請人は長男であるため、ゆくゆくは両親の面倒をみなければならない立場にあつた。

以上の事実を疎明することができ、他に右認定を覆えすに足りる疎明はない。

ところで、労働者の勤務場所は労働契約の要素であるから、会社がすでに労働契約の内容となつている勤務場所を変更するためには、労働者の同意を必要とし、その同意を欠く一方的な転勤命令は労働契約に反し、無効であるというべきである。そこで、労働契約において勤務場所が明確に特定されている場合は別として、これが明らかでない場合には、労働者の入社資格、入社時の事情、会社における地位・職種、会社の規模・事業内容など及び労働慣行によつて労働契約の内容となつている勤務場所がどこか、あるいはどの範囲かを決するほかない。そして、大学卒業の資格で入社し、将来会社の幹部職員となることが予定されているような場合には会社の事業所が各地に点存していても、その全部が労働契約上の勤務場所と解することも可能である。問題は、会社が合併した場合に、労働契約の内容となつている勤務場所がどのような影響を受けるかということである。会社の合併により経営規模が拡大し、事業所が増え、営業活動が地域的にも広範囲にわたることになつた場合において必然的に人事交流が要求されることになるが、この場合旧会社当時の労働契約の内容となつていた勤務場所の範囲に全く変更がないと解するのは、あまりにも会社の合併による事情の変更を考慮しない考え方といわざるを得ない。もつとも、勤務場所につき労働契約により明示して特定されている者あるいは明示されていなくても中学卒業者で工員・作業員として現地採用され転勤など全く予定されていなかつた者などについては会社の合併により勤務場所が変更されるものではない。しかし、勤務場所につき右のような特定がなく会社における地位・職種などから労働契約上の勤務場所が広範囲であると解せられている労働者の場合には、会社の合併により労働契約上の勤務場所は当然変更を受け、合併後の会社における地位・職種、会社の規模・事業内容など及び労働慣行により改めて労働契約の内容としての勤務場所の範囲が定まると解するのが相当である。

このような考え方に立つて本件についてみるに、申請人は前記認定のとおり大学卒で山陰乳業では主任(又は主任待遇)の地位にあり労働契約上の勤務場所が特定されていた者でもなく、合併後の被申請人においても将来中堅幹部職員になりうるものと目され、広域人事の対象とされていた者であるから、被申請人における労働契約上の勤務場所は、全事業所がその範囲内であるかどうかは別として、少なくとも中国事業本部(中国事業部及び山陰事業部)内の事業所はその範囲内であると解すべきであり、したがつて、本件転勤命令はその範囲内での転勤を命ずるものであるから、労働契約に反するものではないといわなければならない。申請人のこの点に関する主張は理由がない。

(2)  職種変更について

証人那住守の証言により真正に成立したものと認められる疎乙第一〇号証、証人中田哲美、那住守の各証言、申請人本人尋問(第一、二回)の結果を総合すると次の事実が疎明される。

申請人は山陰乳業に入社以来経理課に勤務し、主として決算業務を担当し、同課主任を経て昭和四一年春販売管理課に移籍し、課長より命ぜられた仕事に従事したが、特にこれといつて決つた仕事はなく他の部署の仕事を引き受けたりして経理課時代に比して概して暇であつた。本件転勤命令により申請人は中国事業部販売促進係に所属し前任者藤本征司の仕事を引き継いだが、その仕事の内容は大別して学校給食関係とバターの販売業務であつて、前者のうち主要な仕事は関係機関との折衝、一学期毎の学校給食用牛乳供給事業費補助交付金申請書の作成手続、其の他各種報告書の作成、新規校の開拓などであり、後者は新規販売店、新規需要先の開拓、販売店への納品、運搬、集金業務、市場調査その他情報の蒐集などであり、其の他に昭和四五年夏頃、不良販売店の経営分析を行なつたり、同年春頃から二、三ケ月間因島の日立造船へ牛乳販売の折衝に行つたり、得意先の営業が思わしくないときはその販路の拡張や配乳業務を代わつて行なうなどの仕事に従事した。

以上の事実を認めることができる。

右の事実から判断すると、申請人は中国事業部に配置転換前は事務系統の職種に、そして配転後はセールス系統の職種に従事していることが認められる。

ところで労働者は労働契約で特定された職種にのみ従事する義務を負い、使用者は当該労働者の承諾その他これを根拠づける特段の事由なくして恣りにその範囲を逸脱することは許されないと解するのが相当である。

山陰乳業は申請人の前歴からみてその有する経理能力を高く評価して採用し、経理業務に従事させていたものと推認される。しかしながら、申請人の労働契約の内容たる職種は経理事務のみに特定されていたとは認められないうえ、本件転勤命令には申請人を今後幹部社員として飛躍せしめる目的をもつてマーケツテイング・セールスの業務の勉強が必要との考慮が加えられており、配転後の新職務も単なる商品の販売という機械的・肉体的な要素の多いものとは異なつて、むしろ高度の知的・精神的能力を要する職務と考えられ、この点では従前の経理事務とはいくらか異なつた面があるとはいえ、なお労働契約上の職種の変更があつたとまでは認めることは出来ないので、この点に関する申請人の主張は理由がない。

五、次に人事権の濫用の主張について判断する。

(1)  本件転勤命令が被申請人にとつて業務上の合理性、必要性に乏しいとの主張につき検討するに、

前記二で認定のとおり本件転勤命令は被申請人の経営会議において承認された全国的視野にたつ人事異動方針によつて計画されたもので、申請人の選考については客観的な資料に基づいて行なわれたものでその経過に不自然なものはないこと、申請人は従来セールスの経験がなかつたが、証人那住守の証言によれば、配転後中国事業部においても職務に熱心で、バターの売上げに尽力し優秀な成果を収め、学校給食関係についてもかなりの成績をあげていることが認められるから、本件転勤命令が被申請人にとつて業務上の必要性、合理性に乏しいとの申請人の主張は理由がない。

(2)  次に申請人の生活権に不当又は不必要な侵害を引き起しているとの主張について。

前掲疎甲第一号証、第四号証、第五号証、第四一号証、第四二号証、成立に争いのない疎甲第一九号証に、証人小原予吏子の証言、申請人本人尋問(第一回)を総合すると次の事実が疎明される。

申請人の母竹枝は元来病弱であり、昭和四三年夏頃から肝硬変症を患い翌年三月頃には経過良好となつたがまだ一年程安静加療を要する状態で同年八月頃迄寝たり起きたりの状態であつたので、申請人の妻予吏子は、母竹枝の発病と同時に勤務先をやめ、専ら母の看病と家事に従事していた。申請人は同四三年六月頃、母の宗教活動と申請人夫婦の居室に当てるため家屋を増築したが、それによつて一五〇万円の負債を負つた。以上のような事情にあるので申請人は妻を伴つて転勤することができず、単身で赴任した。そして中国事業部へ転勤後申請人は手取約六万円の給料のうちから家庭に二万円を送金し、残額のうちから労働金庫、住宅金融公庫等の借入金、保険料、自動車の月賦代金を支払い、一方申請人の妻予吏子は右送金額から更に約五千円を借財の返済に充て、父義直から生活費として受取る一万五千円と内職賃の約三万三千円で老父母と自分の生計を立てている。

被申請人は申請人との約定に基づき申請人を月額一、三九〇円の使用料で社宅に入居させ、一ケ月約一回申請人が母を見舞うため帰宅する際は、タンクローリー車の同乗を認め、これを利用できないときは、申請人が地労委の審問及び調停期日に帰宅した場合を除いて、広島から大田までの汽車賃を支給していたが、昭和四五年六月申請人が中古車を購入し、その車上に「不当配転を撤回せよ」とした看板を掲げ本件配転の不当性をスピーカーで宣伝しながら車を運転して帰宅するので、それ以後は右旅費の支給を停止していることが認められ、右の認定を覆えすに足りる疎明はない。

ところで使用者が業務上の必要に基づき労働者に転勤を命ずる場合、労働者の生活関係に重大な影響をもたらすので、業務上の理由に基づく転勤命令であるからといつて無制約に許されるものと解すべきではなく、右権限の行使はそれがもたらす結果のみならず、その行使の過程においても労働関係上要請される信義則に照らし、当然に合理的な制約に服すべきものであり、その制約は具体的事業において業務上の必要の程度と労働者の生活関係への影響の程度とを比較衡量して判断されなければならない。これを本件についてみると、前記二ならびに右に認定のとおり被申請人は母の病状について充分調査を尽し、これが申請人の本件転勤に支障をきたすものではないと判断しながら、申請人が母の見舞に帰れるよう特に前記のような便宜をはかつたこと、本件転勤命令が出された昭和四四年三月頃申請人の母の病状は軽快に向つており、同じ大田市内には申請人の弟夫婦が居住しているので、母の看病を父及び弟夫婦に託し、申請人が妻を伴つて転勤できない状態ではなく、本件転勤命令が夫婦別居を強いるものであるとはいいがたいこと、父の経営難あるいは住宅増築による借財は申請人一家の経済を圧迫しており、転勤による二重生活がこれに拍車をかけることが窺われるが、前掲疎甲第四二号証によれば申請人の父義直には申請人及び右画家の次男の他、繊維問屋に勤めている三男並びに建築士の四男が居り右息子等の援助をあおぐことも不可能でないことが認められるので、そのことから直ちに申請人に対するすべての転勤命令が許されないとすることはできないなどの諸事情を考慮すれば、本件転勤命令は申請人の生活に耐え難い犠牲を強いるものとはいえない。又前記二で認定のとおり、本件転勤命令を発するに至つた経緯、申請人ならびに組合との折衝経過、被申請人が提案した条件等を総合勘案するならば、被申請人側に特に誠意に欠け、信義則に反すると認むるに足りる事情は見当らない。

よつていずれの点からみても民法第九〇条、又は同法第一条第三項に違反するとの主張は理由がなく失当である。

六、結語

してみると、本件申請は被保全権利の疎明を欠くものと言わざるを得ず、従つて保全の必要性の判断を加えるまでもなくこれを却下することとし、訴訟費用の負担につき民訴法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 元吉麗子 野間洋之助 今井俊介)

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